各教会の歴史

各教会の歴史についての文章は、以前あったホームページからお借りしたものを若干修正いたしました。


帯広教会の歴史

 

1927年にキノルド司教とモーリス師の骨折りで釧路に教会が出来、モーリス師が主任司祭となられ、十勝と北見がその巡回区域になりました。

その頃になると、帯広もすでに村ではなくてかなりの町になっており、信者も増加してきましたので1930年10月には遂に帯広町にも教会が創設される運びとなり、盛大な献堂式があげられました。献堂式のときに集まった方は新教会の主任司祭となったフーベル師のほか、モーリス師、ヒラリオ師、エマヌエル師、牧野さん、岡崎さん、松葉さん、高田さん、熊谷さん、安斎さん、テレジアさんなどで、信者としては子供や他教会からの方々を含め20人程度でした。

──大正4年2月10日、全世界カトリック教の本部であるローマ教皇庁から、ドイツのフルダ市に管区本部のあるフランシスコ修道会教団に、日本の布教伝道が命ぜられた。

昭和2年に釧路に教会が設置されたあと、帯広は釧路教会の布教範囲に属した。釧路からアレキシオ・モリス神父と同じフランシスコ会の修道士でドイツ人のゲルハルト・フーベル神父がオートバイで巡回、個人の家を会場にミサを捧げ、ご聖体を授けた。当時の国道38号線は砂利道のひどい道路、橋も木橋がほとんどで、わずかな雨にも流されるという有様。こんな中を両神父は愛車のオートバイ・ハーレーに乗って帯広まで駆けつけ、数少ない信者とともに祈り、ご聖体の秘跡を授けた。

──帯広にも教会設置の機運が熟した。そして決まったのが帯広町東四条十四丁目一番地の現在地である。当時、この付近にわずかに農家が散在していた程度。いまとなっては想像もできない風景だった。そこに木造モルタル三階建てのドイツ風洋館、帯広天主公教会聖堂が昭和5年5月に完成した。

帯広教会は、聖家族の中で、天の父の代理者として御子キリストの注意深い養育者、聖家族の保護者、すべての働く者の模範である聖ヨゼフの良い模範が全信者の家庭に行きわたるようにとの願いから、帯広聖ヨゼフ教会と呼称されている。

初代主任司祭ゲルハルト・フーベル神父の柔和な目、そして特徴のあるあごひげ、温和な話し方は、多くの信者ばかりでなく、未信者の心を引きつけて行った。布教活動は進み、信者も増え、毎日曜日のミサ聖祭には多くの信者が礼拝した。

長坂神父は昭和10年4月から同11年4月まで当教会の助任を務め、その後、旭川に転じた。

昭和10年といえば帯広は三回にわたって洪水に見舞われた。いずれも札内川の本支流から流れ出した水が帯広の東部にあふれ、一面の濁流になった。このため住宅が流されたり、床上、床下浸水などの被害が続出、教会は一時これら被災者の収容に当てられた。

1936年(昭和12年)4月、ゲルハルト・フーベル神父に代わって、長坂秀親神父が主任司祭として着任した。その年の7月7日支那事変が勃発、第二次世界大戦への導火線になった。

 長坂神父は、布教活動として帯広市内の病院に入院している病人や傷病兵を慰問し、神のみ教えを説いた。また日曜学校を開き、教会に近い柏小学校下の子供たちを集め、活発に働いた。

6月、スズランの花の咲くころ、帯広郊外に信者たちが揃ってスズラン狩りにいき、豚汁のナベを囲んだのも、古い信者たちの思い出になっている。殺伐とした世相のなかに、信者たちがお互いの信仰を確かめ合い、兄弟姉妹としての愛を確かめた。これがいまの野外ミサの始まりといってよいだろう。

その頃になると、信者の中からも、出征する人が多くなった。聖堂でミサ聖祭とともに出征した信者、出征していく信者の武運長久を祈るという、戦時下ならではの風景が見られた。

1941年(昭和16年)4月、長坂神父に代わって林忠実神父が着任した。

暮れの12月8日には、第二次世界大戦、いわゆる太平洋戦争に突入した。

布教活動も思うにまかせず、信者たちも徴兵や徴用によって戦場や軍需工場にかりたてられた。また1944年(昭和19年)には第一飛行師団と第七師団が帯広とその周辺に移駐し、商工奨励館、十勝会館、大谷高女をはじめ、一部の旅館などが軍に徴発された。このなかにはカトリック教会も含まれ、会計隊の隊舎になった。林神父は病気のため札幌へ帰り、入院する身となった。

その後は釧路の武宮雷吾神父が巡回して、個人の家で巡回ミサが行われた。

林師が1943年に退任された後、帯広教会の主任司祭は釧路教会の武宮雷吾師が兼ねられることになりました。当時戦局は日々熾烈を加え、帯広教会の建物も1944年には軍の徴用するところとなり、日曜日の御ミサは牧野氏宅で行われることとなりました。戦時中のこととて信者も徴兵や徴用のために分散してしまい、或いは日曜日でも出勤せねばならない等のため、御ミサに集まる信者も10人以下となり帯広教会の歴史は20年前に逆転した形となりました。そして頼みとする武宮師すらも、1945の5月には旭川の浅井師とともに宗教団体勤労奉仕隊の一員として徴用されるに至りました。外国人司祭の行動が強い制限を受けていた時とて、これは教会の活動にとって甚だしい打撃となりました。

1945年(昭和20年)8月、終戦とともに教会は返還され、フルダ管区のゴラ・ダマゾ神父が主任司祭として着任した。戦時中の神道教育、加えてカトリック教会の疎外ということもあって信者たちが毎日曜日にミサにあずかるという習慣がゆるんでいた。

ゴラ神父は、クリスマスや復活祭の時に、ミサにあずかる責任についてよく話された。信者の心の手綱を引き締めるために、歴代神父の中でも並々ならない苦労をなめた。

ゴラ神父を語る場合、忘れられないのは、昭和21年の帯広音楽協会の発足である。戦後の虚脱状態の帯広の町に音楽を──帯広市民に安らぎを与えたものだ。

第二次世界大戦下の宣教受難期を経て、カトリック信者の信仰はますます堅固なものになったが、宣教師の数は少なくなった。そこでフルダ管区は、道東の宣教をフランシスコ会など他の管区に依頼した。こうしたことから、ローマのフランシスコ会総長からベニス管区が道東地区を担当するように書簡が届いた。昭和27年のことである。

昭和28年4月3日、聖土曜日の午後、ベニス管区が派遣したフランシスコ会のヴィットリオ・ガウァッソ神父が帯広教会に着任した。信者は日本語の不自由なヴィットリオ神父の心の支えになって、求道者に教理を教え、病める人には出向いて見舞い、神の助けを祈願した。

ヴィットリオ神父は、不自由な日本語で精一杯の布教を続けた。これがかえって幸いし、教会の信者が皆で協力し合わなければ!という機運が生まれた。

後に同神父は「この経験は、教会を上手に運営していくためには、一人の主任司祭がすべての役目を果たすのではなく、信者一人ひとりの責任として役割をそれぞれ分担してこそ、一致の共同体が達成される。これによって教会は信者の第二の家庭になります」と述懐している。

1954年(昭和29年)5月29日、後任としてボナヴェントゥラ・トヌッティ神父が着任、また同年、助任としてヴィアーレ神父が着任した。

翌1955年(昭和30年)2月28日、大阪の殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会から、シスター・ミカエラ、シスター・アスンタを呼び、藤学園の幼稚園を開園した。教会の内部を改造して開園・卒業式も聖堂でという不便なものであったが、その後旧マリア院、ボイラー室、ホールを新築し、さらに1959年(昭和34年)には、現在の修道院と三教室を増築するなど、帯広市内でも充実した幼稚園となった。

幼稚園開設の年は、ちょうど帯広教会宣教25周年にあたり、9月17日に記念式典が催された。

1958年(昭和34年)12月末、六年半帯広で司牧したトヌッティ神父は釧路地区長に選ばれ、帯広教会を後にした。

この六年間はいわば帯広教会の発展期といっても良い。信者数も350人を数えるまでになった。トヌッティ神父は帯広市の社会教育講師、ユネスコ協会など市民活動にも積極的に参加した。

トヌッティ神父に代わってヴィットリオ・ガワッソ神父が二度目の帯広教会主任司祭として着任した。

信者たちは教会建築資金寄付金の積み立てをした。が、積立金は遅々として集まらず、建築委員会を招集し、相談した結果「聖堂を建ててから寄付を集める」方針を決めた。

総工費は当時の金額として1200万円(建築費のみ)。そのうち400万円は管区から、300万円は幼稚園から、300万円はヴィットリオ神父の出身地イタリアの修道院や神父の幼友達ガルシェラ氏ら信者から、帯広の信者は200万円を負担するという割り振りだった。

この募金にあたってヴィットリオ神父は「主イエズスは神秘体のなかに親石として、一番大きな十字架の犠牲を天の父に捧げました。私たちはその上に築く小さな石として、主イエズスとともに毎日小さな犠牲を捧げましょう。社会を建てるためも同じです。あなたがた信者からも小さな犠牲を願います。教会は皆さんのものですから、信者はだれでも、私の教会ということができます。そのために自分の力に応じた一つの犠牲、すなわち建築費を寄付してください」と訴えた。

1964年(昭和39年)5月15日、大道建設の手で工事が進められ、翌年の8月末に完成した。

献堂式は翌年の1966年(昭和41年)7月24日、札幌教区ベネディクト富沢孝彦司教をはじめ歴代主任、助任の司祭、管区内の神父、そして信者が集い、盛大に行われた。


柏林台教会の歴史

 

設立記念日 1964(昭和39)7月24日

献堂記念日 1969(昭和44)6月22日

 

柏林台教会の歴史は、1961年(昭和36年)11月23日から始まりました。そして、このことは、神様のみ旨と思えるような出来事と思います。その日、故・富澤司教様が、根室教会の落成・献堂式の帰路に帯広教会(東4条教会)に立ち寄られ、当時の釧路地区長であった、ボナヴェントゥラ・トヌッティ神父様に「帯広に、もう1つの教会を」と希望されたのでした。また、ちょうどその頃、当時の吉村帯広市長は、帯広市の西部に造成され、急速に発展する柏林台団地に幼稚園を設けるよう、トヌッティ神父様に依頼していたのでした。トヌッティ神父様は、偶然(?)にも重なったこの2つの出来事は神様のみ旨だと信じ、教会と幼稚園の建設に着手したのです。

トヌッティ神父様は先ず、柏林台団地の中に、700坪の土地を購入し、園児40名、収容(2クラス)の小さな幼稚園を建てたのです。幼稚園は、翌1962年(昭和37年)9月10日に完成、開園しました。

 1964年(昭和39年)4月には、園児数の増加に伴い園舎の増築と5坪の聖堂、及び司祭の部屋を建てました。そして、この年の7月24日、富澤司教様は、帯広(東4条)教会から分離させ、柏林台小教区として認可して下さったのです。ここに、正式な「帯広・柏林台教会(小教区)」が設置されたのです。


池田教会の歴史

 

1964年4月1日創立

1964年9月(昭和39年) 幼稚園、聖堂、司祭館の建設に着工。

1965年4月(昭和40年) 「カトリック池田幼稚園」として開園。

1965年7月(昭和40年) 聖堂と司祭館の献堂式を25日に行った。

            帯広教会から約30名の信徒が移籍。

            ダニエル・ロメリ師が初代主任司祭に就任。

1976年  (昭和51年) 池田町の都市計画により隣接地へ移転。

1976年5月6日      新聖堂・新司祭館の献堂式を行った。


本別教会の歴史

 

1953年(昭和28年)7月23日、ローマ聖座からの承認を受けて、フランシスコ会・ヴェニス管区の手によって、道東の釧路・十勝地区の宣教が始められました。その中で、国鉄池北線(旧網走本線)沿いに教会の建設が計画され、本別町がその候補地になりました。

当時の釧路地区の管区長ダミアノ神父様は、帯広東4条教会(帯広教会)のヴォルカン神父様を通して本別在住の信徒に建設用地の斡旋を依頼しましたが、なかなか適した土地が見つからず苦労の連続でした。また、当時、本別町役場に勤めていた加藤幸吉さんという方のお世話で、町にも用地購入の斡旋を依頼することが出来ました。

その頃、本別町には幼児教育の施設がありませんでした。町からは、幼児教育施設を併設するなら、用地を斡旋してもよいという回答があり、幼児教育施設を優先するかたちで、現在の地を斡旋され、購入しました。

1954年(昭和29年)4月、ヴォルカン神父様の監督のもとに建設工事が始まりましたが、湿地のため工事が思うように進まなかったようです。同年10月に、聖堂が完成し、十勝郡部で唯一の教会として創立しました。また、同時に町で唯一の幼児教育施設として、本別カトリック幼稚園が開園しました。

ロメリ神父様が、初代の主任司祭として就任し、翌1955年(昭和30年)9月に、富沢司教様を迎えて献堂式が行われました。1957年(昭和32年)10月には、ロメリ神父様の尽力により、イタリア・ヴェニスからアンジェラスの鐘が贈られ、点鐘しました。

本別教会の担当地域は、北は陸別町、南は浦幌町と広く、また、仏教という土地柄の中での神父様達の宣教活動は思うようにいかなかったようです。また、幼稚園に関しても、先生達が町の一軒、一軒を回って、園児募集や幼児教育への理解を求めたという苦労話を聞いたことがあります。多くの人達の苦労の結果が実り、信徒が増えていきました。それに伴い、既存の聖堂では手狭になり、1964年(昭和39年)7月に、当時の主任司祭・ヴィアーレ神父様とロメリ神父様の尽力によって、新しい聖堂(現聖堂)を含む教会が完成し、聖ピオ10世に捧げられました。